by dojicompany
おはようございます。
最近やたら目が覚めるのがはやくって、なんだかお年寄りになったみたいです。
前の日二時まで飲んでいても七時前に目が覚めたりしてしまいます。そのせいで夕方の四時〜六時頃に猛烈な眠気が襲ってきます。いやね、もうすごいですよ。歩いていても突然クラっと眠気が来ると
「あああ、電柱が近づいて来るぅぅ…」
どんっ
いやさすがにぶつかるところまでは行きませんけどね。でもそうなってもおかしくないぐらい眠い。じゃあ、その晩は早くからぐっすり眠れるかというと、日付の変わり目がひたひたと近づいて来たなと思うとさっきまでの眠気はどこへやら、おめめパッチリ!!ううん、困ったものです。皆様におかれましてはくれぐれも体調管理にお気をつけられますように。季節の変わり目ですしね。
でも今日書こうと思ったのは体調不良の話ではないのでした。知性の不調のお話です。
最近アタマが悪いんです。
いやいや、言われんでもわかっとるがなていうか最近ていうかいつもアタマ悪いやんけお前と仰るであろう諸兄のお言葉はいちいちごもっともなんですが、そういう慢性的な知性の不足は今更どーしよーもないというか、あの両親なんだからハナから無理というか、学生の頃全く勉強しなかった過去の自分が悪いというか、要はそれは考えると悲しくなるので今言いたいのはそういうことではないのです。
たまにふと「あ、今あんまり頭の回転がうまく回ってない気がする」と思う時があります。それは大体の場合芝居や映画を見終わって夜道を歩いているときや、美術館やギャラリーから出てきたとき、本を一冊読み終えてたばこに火をつけてゆっくり煙を吐いているときにやってきます。
「あー、今のお芝居(又は映画や展覧会や本)面白かったなあ」
僕は他人の創作するアートに大変寛容な人間なので(ホントですよ)常日頃からよくこう思うことがあります。でも、「じゃあどこが面白かったのだろう」と考えたときに「ん〜、よくわかんね」と即答できてしまうとき、これ要注意です。さらに悪くなるとなにが面白かったのかという問いすら浮かんで来ないことがあります。確かに面白いのだけど、自分にとって今見た芸がどういう位置づけのもと興味を涌かせたのか言語化できない状態になってしまう。こうなると完全にアウトです。
芸術には色んな楽しみ方があるので、もちろん何も考えずただただ面白がるという姿勢が悪いわけではもちろんありません。僕も舞台をするときにお客様にそうやって観て頂きたいと思う公演を作ったりします。でもそういった楽しみ方もある一方で、じっくりと時間をかけて考える楽しみ方もあります。それは対象と自分が静かに向かい合いながら、観賞後にゆっくりと時間をかけてすりあわせることでじわじわと芸術と自分が混ざりあうのを喜ぶような楽しさです。そういった楽しみ方を全く放棄してしまっているとき、僕は自分の「知性が不調」であると感じます。
そんなときにはやっぱり自分のアタマの点検が必要になります。「じっくり思考することが面倒だと思う気持ち」と「思考することの楽しさ」を秤にかけたときに後者を選びたくなるような、脳が活発に動くこと自体が楽しいのだと思い出すような状態に戻してやりたい。
じゃあどうやってそのような状態にもどすのか。僕は好きな作家の本を再読します。あたりまえですが何度も再読するような作家の書籍には自分が面白いと思う価値判断が詰まっています。というか、こういった物事はどちらが後先とは言えないのですが、好きな作家や芸術家の作品を繰り返し消費し続けた結果僕は今の価値判断を得るに至ったということもできるでしょう。芸術の好き嫌いについて、先天的に備わった嗜好というものががあるのかどうか僕は知りませんが、おそらくはこれまで見たり読んだり聴いたりしてきたものから後天的に獲得して来たものが大半をしめていると思います。ですから、好きな本を読み返すということは自分がなにを基準として良い/悪いを判断しているかを思い出すことになります。
僕の場合、そういうときに読むのは内田百閒、筒井康隆、中島らも、中山康樹、宮田珠己、荒木飛呂彦、高野秀行、村上龍、土屋健二、内田樹、ジャックケルアック、ゲーリーシュナイダー、ブコウスキ、ランボー、パウロコエーリョ、ディラン、オクタビオパス…などなど。どの作家も今まで何度も再読してきた人達ばっかりです。こうやって書くと日本人の作家はわりとユーモアのある作家が多いのに対し、海外の作家は詩人が多いですね。「はなす言語によって人は人格が変わる」という考え方に僕は同意しているのですが、読む本にもそれが顕著に現れている気がしますね。それはさておき、そういった好きな本をガリガリ再読していると、不意に思考が飛んで「なにが面白かったのかうまく説明できなかった」こととリンクすることがあります。
「あー、そうか。あの芝居のあの場面で僕はこれこれこういうことを読み取って面白いと感じてたんだな。ということは次のあの場面でこうなった時…」
と、突然何かがわかった(ような気がする)ら、あとはパズルのピースが埋まるようにがしがし思考が回り始めます。
こうなればオッケー。チューンアップ完了です。僕のぐうたらな脳が「考えることって楽しいっ」と再び思っている証拠(たとえ勘違いであったとしても)です。あとは『書を捨てよ町へ出よう』です。何回も読んだ本なんてかったるくて読んでられっかいっ、と豪快に本をソファに打ち捨てて町へ飛び出すのです。映画や芝居を見てもいいし、知らないギャラリーへ入ってもいいし、夜中ならばバーへ行って人とお喋りしてもいい。なんでもいいから新しい刺激に触れるのです。刺激を得た脳は、まるで石炭を次々に放り込んだ蒸気機関車のようにモクモクと煙を上げながら回転速度を速めていきます。すると次から次にいろんな考えが浮かび、マシンガンのように言葉が口から出て来る。
まあ、このときに考えたことは、一種の躁状態ですから、正直あんまり役に立たない(苦笑)。でも、そうやってチューンアップされたあとは「考えるための考え方」がきちんと残るので翌日以降のもうすこし気分が落ち着いた状態のときにうまく物事を捉えられるようになります。そして、しばらくするとまた思考不良に陥るのでまた本を再読して整備する。こんな感じでアタマの点検を何ヶ月かに一度はやっているのです。
今もそういった点検期間で、数日前から暇があれば内田樹さんの本をむさぼり読んでいるわけでございます。今度はいつどの本のどのフレーズでつながるのでしょう。その瞬間が来る瞬間に思いを馳せて、ワクワクしながら、ドキドキしながら、ちょっとだけ切実に祈るように、じっと待っているのです。
さあ、今日は新作の初回稽古だ。
ちょっと時間に余裕をもって出かけようか。
お気に入りの曲をiPodで聴きながら喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読もう。
書を持って町へ出よう